江戸将棋〜柳沢 吉保vs新井 白石


「吉保殿、貨幣の質を落としてはなりませぬ。さようなことをなされば、民は物価の高騰に苦しみ、国を滅ぼすもととなりまするぞ。」
白石は迫った。
「わしはそう思わぬぞ、白石殿。民にバレぬよう、こっそり貨幣の質を落とせばよいのじゃ。幕府は今や財政難。金(かね)がなくては政(まつりごと)はできぬ。きれいごとばかりでは済まぬぞ、白石殿。文句があるなら将棋で決着をつけようではないか。」
吉保は自信満々に言い放った。
「それもいいですな。」
白石も儒学者。囲碁将棋は誰にも負けぬ自信がある。
「わしの先手ということでよろしいかな?」
吉保は、さりげなく切り出した。
「かまいませぬが。」
白石は余裕である。

▲1八香まで
▲7六歩△8四歩▲7八飛△8五歩▲7七角△3四歩▲6六歩
「角道を止めるとは気合悪し。それがしの有利でござるな。」
「振り飛車も立派な作戦ですぞ。」
双方指し慣れた展開なのか、指し手はどんどん進んでいく。

△6二銀▲6八銀△4二玉▲4八玉△3二玉▲3八玉△5四歩▲2八玉△4二銀
白石得意の速攻の構え。憎き政敵、吉保の振り飛車を一挙に攻め潰すつもりである。
「ほっほう、ならばこれでいきますか。」
吉保はニヤリとして、右香をつまんだ。吉保▲1八香(左図)。

「穴犬とは無礼ではないか!」
白石はカンカンに怒った。
「玉を大事に囲って何が悪い。」
吉保は言い返した。




時は元禄時代。徳川綱吉は、「生類憐みの令」を出し、特に犬を大事にするよう命じた。それにともない、将棋においてもこの「穴犬」という囲いが流行り出している。「生類憐みの令」を「天下の悪法」と非難する白石はもちろんこの「穴犬」が大嫌いだ。
白石△7四歩。穴犬が完成する前に一挙に攻め込むつもりだ。
「あんな囲いが成立するはずがない。」
白石は自分に言い聞かせた。

▲1九玉△5三銀左▲2八銀。穴犬は未完成。白石△7五歩。ついに戦端開く!
吉保落ち着いて▲6七銀。白石△6四銀と繰り出す。
▲6八金まで
「こうしておけば攻めが止まりますな。」
吉保▲6八金(右図)。
△7六歩▲同銀△7二飛▲8八角。
「ううむ。」
白石ははじめて長考に沈んだ。こうされてみると、勢い込んで銀を繰り出したものの、意外に次の攻めがないのだ。
「正義は勝つのじゃ白石殿。ワハッハッハッハ!」
吉保はあえて白石の好きな「正義」という言葉を使って挑発した。





「いったん立て直すか。」
白石△7五歩。局面は収まったがこれでもいい勝負のはずだ、と白石は確信していた。
▲6七銀△8二飛▲7七角△7三銀引▲3九金△7四銀▲5六歩△6四歩▲5七金△5二金右▲3六歩
白石は銀を立て直して攻撃態勢を整え、吉保はその間に穴犬を完成させる。
▲3八飛まで

△6五歩▲5五歩△同角▲4六金△2二角▲3八飛(左図)ついに本格的な戦いが始まった。
正攻法で攻める白石だが、吉保はこれを適当に歩を突き捨ててお茶を濁し、直接白石の玉頭を狙った。
「無礼なり!何たる無礼じゃ!」
白石は顔を真っ赤にして怒った。
「わしの攻撃を適当に受け流すなどという態度は無礼ではないか!吉保殿!」
「将棋に無礼などというものがあろうか?」
吉保はとぼけた。






▲3三歩まで

△6六歩▲同銀△6五歩▲5七銀△7七角成▲同桂△8六歩
ついに白石は8筋の突破に成功した。
「これで悪いはずがない。」
と思ったその時であった。吉保軽やかに▲3三歩(右図)。
「何たる無礼な手じゃ!」
と白石は怒ったが、これは取りようもなく、△4二玉と逃げても▲6四角で王手飛車がかかってしまう厄介な歩なのだ。








白石は△2二玉と逃げたが、これを境に白石の玉は身動きが取れなくなり、どうにもこうにも手のほどこしようがなくなってしまったのである。
以下は白石の惨敗である。手順のみを記す。

▲3五金△8七歩成▲3四金△7七と▲4五角△3一桂▲3六飛△8八飛成
▲2六飛△1二角▲1六歩△9九竜▲1五歩△2四香▲1六飛△6七と
▲1四歩△同歩▲1三歩△同桂▲1四飛△2一角▲1二歩△同香
▲2四金△同歩▲1二角成  まで85手で吉保の勝ち。

「かようなもの、将棋にあらず!」
白石は激怒し、盤をひっくり返して退席してしまった。
「上様!吉保殿が、このようにセコい将棋を指されましたぞ!」
白石は悔しさのあまり、時の将軍綱吉に直訴した。
「ほほう、穴犬ではないか。さすが吉保じゃのう。生類、とくに犬は憐れまねばならぬ。戦国の世はとうに終わったというが、まだまだ人心は戦国の世から解き放たれてはおらぬ。余は天下泰平の世を築きたいのじゃ。そのためには、人心を穏やかなものとせねばならぬ。人心を穏やかなるものとするためには、まず生類を憐れまねばならぬ。民からは鉄砲・刀の類は取り上げねばならぬ。民が人を殺めるのは余の代で最後とせねばならぬのじゃ。生類を憐れんでこそ、人を憐れむ心もまた育っていくというものじゃ。分かってくれよ、白石。」
綱吉は自分に言い聞かせるようにつぶやいた。

綱吉の死後、吉保は隠居し、白石が政治の実権を握った。生類憐れみの令は「天下の悪法」とされ、「穴犬」もまた「邪の戦術」として時の政権の弾圧を受け、やがては忘れ去られてしまったのである。
盤上の勝者は吉保であったが、歴史の勝者は現在のところ白石である。「穴犬」をした吉保とこれを容認する綱吉に白石が激怒したことが、その後の歴史に暗い影を落としたという事実は、あまり知られていない。   (完)


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